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信長の一生 |
1534年(天文3)、尾張国勝幡城(愛知県)に生まれ、幼くして那古屋城々主になった。幼少から青年時には奇矯な行動が多く周囲から「大うつけ」と称されていた、鉄砲伝来により日本へ伝わった種子島銃に関心を持ったエピソードなどが知られる。1546年(天文15)、元服して織田上総介信長と称すると、1548年(天文17)、美濃国(岐阜県)の戦国大名の斎藤道三の娘濃姫と政略結婚する。1551年(天文20)、父信秀の没後に家督を継承したが、柴田勝家らの重臣が実弟信行の擁立を企てて反旗を翻した。尾張国は守護職の斯波氏の権威が衰えており、織田家も分裂しており三河国の松平氏や駿河国の今川氏と国境線を争う状態であり、1559年に信長は尾張国内の支配権を確立すると、1560年(永禄3)に上洛を目指して尾張へ侵入した今川義元を桶狭間において破った(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後今川家の支配から独立した三河国の徳川家康と同盟して背後を固める(1562年)と、斎藤氏攻略に専念し、1567年(永禄10)、美濃国を手に入れた。井ノ口を岐阜と改め、このころから『天下布武』の朱印を用いるようになって、本格的に天下統一を目指すようになった。1568年(永禄11)、越前国に身を寄せていた足利義昭を招いて戴き、電撃的に上洛して、義昭を15代征夷大将軍に擁立した。
信長の傀儡の地位に我慢ならなかった足利義昭は、間もなく武田信玄・朝倉義景などの大名や延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて反信長包囲網を結成した。信長は、1570年(元亀元)、近江国姉川河原で朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破り、1571年、延暦寺を焼き討ちするなどして対抗した。1572年(元亀3)、足利義昭に呼応した甲斐国(山梨県)の武田信玄は上洛を決意し(異説あり)、徳川家領内に侵入して織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、信玄の病死によって武田軍は甲斐に撤退し、反信長包囲網が破綻した。勢いを得た信長は、1573年、義昭を京都から追放し、浅井氏・朝倉氏を滅亡させると、1575年(天正3)、信玄の後継者であった武田勝頼を長篠の戦いで破った。1576年(天正4)、岐阜城から近江国琵琶湖々岸に完成した安土城に移り、天下統一事業に邁進した。
1577年、家臣の豊臣秀吉を中国地方に派遣して毛利氏攻略を開始した。1578年、北陸の上杉謙信が上洛を計画中に病死したこともあって、信長の天下統一事業は進み、1580年に有利な条件で顕如と和睦して、石山本願寺を大坂から退去させた。1582年(天正10)、武田勝頼を天目山に追って自害させ武田氏を滅ぼし、同年6月2日、毛利遠征の途上に逗留した本能寺(京都市)を家臣の明智光秀に襲われ、自害した(本能寺の変)。 |
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