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信長の息子達
織田信忠  信長の嫡男。幼名は奇妙丸、母は生駒氏。元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに名を信忠と改める。官ははじめ秋田城介。1572年に初陣して以来、信長に従って転戦。1575年に武田氏に奪われていた岩村城の攻略戦に総大将として貢献し、年末(西暦では1576年初め)に信長から名目上の織田家家督を譲られて美濃国の支配を任され、岐阜城の城主となった。実質上の後継者として急速に勢力を拡大する信長をよく助け、1577年には松永久秀討伐従軍の功績により従三位左中将に任官した。1580年には尾張国南部を統括していた佐久間信盛が追放されたため、尾張に支配地域が広がる。1582年の武田攻めでは尾張・美濃の軍勢を率い、滝川一益を補佐につけられて先鋒を命ぜられ、伊那方面からの進軍を担当して信濃国南部の武田方の拠点である飯田城、高遠城を落とし、甲斐国に侵攻。信長の本隊が追いつく前に武田勝頼を自害に追い込む功績をあげた。本能寺の変のときは信長とともに京都に滞在しており、宿所の本妙寺で本能寺が明智光秀に襲われたことを知り、二条御所(二条城の前身)に走る。信忠は手回りのわずかな軍兵とともに二条御所に住まう皇太子(誠仁親王)を逃がして篭城したが、衆寡敵せずに自害した。
織田信雄  信長の次男、北畠具教の養子。幼名は茶筅丸。信孝の方が先に生まれたが、侍女が信長に出生を伝えるのが信雄の方が早かった為に信雄は次男、信孝は三男になった。母は生駒の方。父・信長の北畠攻めの際に和睦の条件として、北畠氏養子となり家督を相続する。本能寺の変後、清洲会議で三法師の後見となった際に織田に復姓した。信長に無断で行った伊賀攻めでの大敗もあり戦上手ではなかったと言われている。 本能寺の変後、急速に力を持った羽柴秀吉と対立し、家康に助けを求めたことから小牧・長久手の戦いが起きる。戦いは一進一退となり、信雄が早く音を上げてしまい単独講和してこの戦は終結する。 豊臣政権下では、駿河の転封を拒否したために領地を失っている。その後、秀吉の御伽衆になる。 天下平定後は大名に取り立てられて、その一族は明治に至る。
織田信孝  信長の三男、神戸具盛の養子。幼名は三七。
 1568年、信長が伊勢国を平定した時に、降伏した神戸城城主の養子とされ、乗っ取りに近い形で神戸氏を継ぐ。翌年北畠氏の養子に入って伊勢南部を支配した兄信雄より器量に優れていたと言われ、彼の人格を高く評価する宣教師の報告も残るが、その支配地は信雄より狭く序列も低く置かれていた。1582年に四国征伐の総司令官に任ぜられ、織田氏の宿老丹羽長秀や信長の弟の子津田信澄らを付属されたが、堺にて渡海の準備をしている最中に本能寺の変が発生。大坂で明智光秀の娘婿である津田信澄を殺し、摂津国富田で引き帰してきた羽柴秀吉に合流して山崎の戦いに参戦した。ところが、信長の仇討ちを果たした功績にも関わらず、清洲会議で織田家の後継者は甥の三法師に決められ、兄信忠の遺領美濃国を与えられたに留まった。その後、柴田勝家・滝川一益と結び、三法師を擁する秀吉に対して挙兵するが、居城岐阜城を秀吉と結んだ信雄の軍勢に囲まれて身動きが取れず、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れたため開城して降伏した。信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、秀吉・信雄に迫られて自害した。命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。辞世の句「昔より主をば討つ身の間なれば報いを受けよ羽柴筑前」
羽柴秀勝  信長の四男、羽柴秀吉の養子。幼名は於次。子の無かった羽柴秀吉の養子となった。これは秀吉が、織田家中における勢力拡大をはかって信長に頼み込んだためと言われている。1582年、織田信長が本能寺の変で没してからは「信長の四男」としての名分を義父に政治的に利用され、山崎の戦いでは弔い合戦の旗印とされ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。織田領の再分配を決めた清洲会議では明智光秀の旧領で京都に近い要地、丹波亀山城を与えられる。しかし、その後はもともと病弱だったことが災いしてしばしば病床につき、1585年、わずか18歳で病没した。
織田勝長 信長の五男。
織田信秀 信長の六男。
織田信高 信長の七男。
織田信吉 信長の八男。
織田信貞 信長の九男。
織田信好 信長の十男。
織田長次 信長の十一男。